アーユルヴェーダについて

幸福な人生と有益な人生

誰もが、一生の間で一度ぐらいは考えるのではないかと思われるテーマ。

どうしたら幸せな人生を送れますか?

みんな幸せになりたいし、どうしたら幸せになれるのか知りたいのだと思います。

幸せになるには?

これは、紀元前のはるか昔から、恐らく、人類が誕生したときから、全人類に課せられた命題なのだろうと思います。

でも、人類の話にまで広げてしまうとあまりにも壮大。もっと身近なところに話を戻しましょう。

私から見たアーユルヴェーダは、人の心と体の取り扱い説明書のようなもの。

身体を整えるための方法だけでなく、心を整えることや、生き方の智慧が詰まっています。

その、アーユルヴェーダの古典書、チャラカサンヒターには、「幸福な人生とはなにか」、「有益な人生とはなにか」が書かれています。

幸福な人生とは?

幸福な人生というのは、
精神と肉体ともに病気に冒されていない人、
若々しく、能力にふさわしい体力、勇気、名声、優れた行為、大胆さを持っている人、
知識、学問、元気な感覚器官とその器官の対象になる様々なものを持っている人、
富と楽しみがあって、好きなことをなんでもやってみることが出来て、自由に行動できる人、
こういう人の人生は、幸福な人生である。そうでない人生は、不幸な人生である。
(チャラカサンヒター 1巻 30章)

これが、紀元前に書かれたアーユルヴェーダの古典書に記されている幸福な人生の定義です。

もともとはサンスクリット語で書かれた文章ですので、訳し方によって日本語が微妙に違います。

こちらの日本語訳は、日本アーユルヴェーダスクール校長クリシュナ先生の著書から引用させて頂きました。とてもやさしい日本語訳です。

先生の著書は、アーユルヴェーダの基本的なことについてわかりやすく書かれています。アーユルヴェーダとは何かを知るための入り口としてお勧めです。

アーユルヴェーダの古典に書かれた幸福な人生の定義は、きっぱりとしています。

特に最後の一文、「そうでない人生は、不幸な人生である」。幸福か不幸の二択で、中間はありません。ほんとにきっぱり、すがすがしい限りです。

ここに書かれていることはどれも、なるほど、これが達成されていれば幸福に違いないと思われることばかりです。

ただし、私からすると、どれも達成するのはなかなか難しそうです。

幸福な人生のハードル、かなり高いなぁ。
私が最初にこの文章に出会ったときの第一印象です。

冒頭から、「精神と肉体ともに病気に冒されていない人」

ここからしてなかなか達成するのは難しそうです。

私の場合ですと、手術を伴う病気にかかったことがあり、再発の可能性もゼロではない。となると、病気に冒されていないとはいいがたいので、この定義からいうと幸福な人生ではないことになります。

「病気に冒されていない人」という条件は、現代社会ではとても難しいことのように思えます。

社会全体を見渡してみても、今は、不定愁訴とよばれるなんとなくの不調や、メンタルの浮き沈みなども、病気の一種としてカウントされるような世の中です。

病気でないことが普通の状態というより、病気を抱えていることが普通の状態に置き換わりつつあるような、一億総不定愁訴の時代。

この一文だけをとってみても、私以外にもクリアできていないかも?という方は多そうです。ましてや、この全文をクリアできている人となるとさらにもっと少なくなるように思います。

幸福な人生の定義は、基本的に、「こういう状態にある人」「こういうものを所有している人」ということが基準です。

つまり、「状態」や「所有」が条件ですので、まだそういう状態じゃないけどそうなるように頑張っている、とか、まだもってないけれどもてるように頑張っている、などという途中の段階は、幸福な人生の枠に入れてもらえそうにありません。

幸福な人生は、みんなが望む「理想」であって、目標として掲げるのはよいとしても、書かれていることをそのまま達成するのは大変そうです。

達成が難しい理由は、努力だけでは難しいものが混じっているように思うからです。例えば、先天性の疾患を抱えた人など。

ですので、理想ではあっても、そこに、個人のできる範囲でという補足があってもいいのかなと勝手に思っています。

それでも、ここに書かれた幸福な人生は宝物です。宝物とは、貴重でなかなか見つからないものですから、幸福な人生も同じこと。

達成できるかどうかは別にして、時々読み返して、自分の中に落とし込んでおきたい文章です。

では、次に、有益な人生をみてみましょう。

有益な人生とは?

有益な人生の定義は、幸福な人生の定義よりも長くなります。

実は、私は幸福な人生の定義よりも、こちらの有意義な人生の定義にとても惹かれます。

有益な人生というのは、すべての生物の幸せをのぞむ人、他人の財産を欲しがらない人、真実を語る人、平和を求める人、ものごとをよく調べる人、軽率な行動をしない人、人生の三つの目的である「道徳を守り、財を得、望みを満足させる」という、これら三つをおたがいに矛盾しないように行動する人。

尊敬すべき人を尊敬する人、知識と学問と平和を自分のものとしている人、年寄りをいたわる人、自分の愛着、怒り、憎しみ、自慢、わがままをよく抑制する人。いつも、様々な形で博愛をする人、苦行をし、善い知識をもち、平静に毎日をおくる人、霊的洞察力の知識を持ち、それに専念する人、この世とあの世の両方を考えている人、記憶力と理解力をもつ人、このような人生は、有益な人生である。それに反対する人生は無益な人生である。
(チャラカサンヒター 1巻 30章)

幸福な人生の定義は、「状態」や「所有」が基準だと書きましたが、有益な人生は「行動」が基準の要素が多いです。

ここで取り上げられているのは、心がけだったり、道徳的な行動だったり、行動規範のようなものです。努力目標となるものが多いのです。

志があれば、すぐにやってみることができる、すくなくとも努力してみることが可能なことばかりです。

幸福な人生に書かれた名声を手に入れるのは難しくても、有益な人生にある、すべての生物の幸せを望んだり、尊敬すべき人を尊敬したりはできそうです。

完璧な幸福な人生を手に入れるのは難しそうでも、有益な人生を生きることは、すくなくとも有益な人生を生きられるように努力することは可能かもしれない。これは嬉しい気づきでした。

それに、有益な人生を実践することは、自分にとって有益になるだけでなく、他人にとっても有益になるようなことばかりです。

それぞれがそうした生き方をすることで、一滴の波紋がどんどん広がっていくように、有益の波が社会に広がっていくように思います。

有益な人生に書かれているひとつひとつの事柄は、実践することに意義があります。ここでは、本に書かれたままの文章をざっと引用として掲載しましたが、今後、ひとつひとつ取り上げていきたいと思います。

それほど価値のある内容だと感じています。

生き方の指南書としてのアーユルヴェーダ

幸福な人生についてと有益な人生について、とりあげました。

アーユルヴェーダはインドの伝承医学で、自然療法のひとつとも言えます。

でも、ただ医学というだけでなく、アーユルヴェーダの智慧の根底には、哲学的な思想が横たわっています。私はそこにとても魅力を感じるのです。

幸福な人生も有益な人生も、つまりは、「よりよく生きる」を目指すこと。

そして、「よりよく生きる」ための指南書がアーユルヴェーダです。

さらに、よりよく生きるためには、日々自分と向き合い、身体を整えたり、心を整えたりする必要があります。その身体も心も、環境によって、季節によって、時間によって、刻々と変化する繊細なものなので、常に微調整が必要です。

そうした微調整の方法を教えてくれるのもまたアーユルヴェーダです。

日々の暮らし方から始まって、よりよい人生を生きる方法まで、すこしずつアーユルヴェーダの智慧に触れて頂き、その時々で、あなたに必要なメッセージを受け取って頂ければと思います。